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若者のための死の倫理学を読んで(三谷尚澄)

 最初にいっておくことがある。それは、本書は筆者と同じ年代、すべて「満たされた世代」の人々に向けて書かれた啓発本(エッセイ)であり、既に社会の荒波にもまれ苦しんでいる人々や、貧困家庭の人々、社会が成熟していない後発国の人々には不適な、いわば、かなり「青臭い」話が主体だということだ。筆者もよくこの類の話を大人に持ち出すと、「若いね」「青春だね」などとバカにしたような態度をとられる。彼らが本書を読めば青臭さのあまり吐き気を催すと思われる。社会にでれば息を吸うように訪れるのだと。しかし、だからこそ、社会に出ていない現代の若者の死生観に寄り添ったエッセイとして、共感を得ることができる。そんな本だと感じた。


 「辛くて苦しいことだらけの毎日なのに、あえて死なないでいる理由はあるのか?」
 そんな漠然とした疑問を空虚に抱き、何かしらの形で自己解決したいと望む人がいれば、本書は「現代俺流死生学入門」として大いに役立つだろう。


 
 なんで生きてるの?
 同世代の友人に気まぐれに聞いてみることがある。
 「なんで生きてるの?」
 すると、今楽しいからとか、いつか幸せなことが起こると確信てるからという人がいる一方で、「なんとなく生きている」という人も大勢いることに気づく。彼らによれば、「特に死ぬ理由もない」のが主な理由だ。生きたいから生きるのではなく、今死のうと思わないから生きる。僕たちの中には、そうした生の無価値性がはびこっているのかもしれない。
 根本原因を探ってみよう。すると、僕たちの人生を取り巻く雰囲気が主要因だと気づくかもしれない。どういうことか?
 まず、僕たちを取り巻く雰囲気について考えてみる。それは、少なくとも「どん底ではない」毎日。あえぐような貧しさはないし、他者との極端なぶつかりもない。しかし、それにも関わらず、そこはかとなく感じられてしまう違和感。生きていることに対する手ごたえのなさ。ほどほどの人生が送れればそれでいい。でも、ほどほどの人生を送ったってなんにもならないことがわかっている。ストレートな仕方で立ち現れる生活の苦を突き抜けた先に開ける、ある種の虚無的な空気をまとった風景が繰り返されている、そんなような雰囲気が僕たちを執拗に取り巻いて離さない。[1]


 
 快適なシステム
 見方を変えれば、無条件に平和に過ごせる安定なシステムが存在している、ということでもある。システムが要求するように生きていれば、平穏無事に生きることができる。隣人といさかいを起こさなければ、人を殺さなければ、強盗しなければ、生は保証される。 
 しかし、システムによる管理は、人に変わろうと思っても何も変わらない、苦労するだけだという感覚を強制する。「無個性の人格」と同時に「生の違和感」も強烈に押し付けたのだ。


 
 古今共通の生の違和感
 今まで書いた流れだと、生の違和感は最近始まったことかのような錯覚を覚えるかもしれないが、そんなことはない。人類ははるか昔から悩み続けている。例えば、山上憶良(万葉集の詩人)は以下のような詩を詠んでいる。
  
 世の中を憂しとやさしと思えども
       飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


 世の中が突き付ける苦しみに打ちのめされながら、それでも逃げることはかなわず、その場にとどまって生き続けるしかない。そんな感情を詠んでいる。今から1300年ほど前の人の話だ。人類は、そんな昔から同じ経験を繰り返してきた、ということになる。
 では、現代ではどんなことが言われているのか気になる。そこで筆者は「ラノベ」の一節を引用して説明している。頑張って若者目線に立って考察しようとしている点が、著者の愉快な点でもある。以下は、冬樹忍の「たまなま 生物は なぜ死なない?」の一節である。


 考えてはいけない。この先のことを、考えてはいけない。成功してどうなるっていうんだ。数十年努力を積み重ねて、どうなるっていうんだ。考えてはいけない。もうやめろ、もう何も考えるな。恋人を見つけて、結婚して、それでどうなるっていうんだ。やめろ。今すぐやめろ。考えるのをやめろ。この先に進むのをやめろ、これ以上考えるのをやめろ。子供を作って、そして育てて、つらい思いをして育てて、そしてそれが何になるっていうんだ。


 今も昔も、姿かたちは違えど、主幹は変わらず、生の違和感にあることがわかるだろう。


 
 結論~僕の考え~ 
 そもそも、俺流死生観を持つ必要があるのか?そう思う人も当然いるだろう。そんな小難しことを考えなくても、楽観的に生きてればなんとかなるんじゃないか?と、ポジティブに生きている「つもりになっている」人は大勢いるだろう。僕はそういった人たちを拒絶するつもりは全くない。しかし、僕が本書のレヴューを書こうと思った最大要因はここにある。


 つまり、生の絶望性、世の中の不条理(差別、生まれ、人種、性別、年齢、偶然.......etc)と真剣に向き合おうとする中で、あえて考えない状況を創り出し、泥水をすすり無様に生にしがみついていくことが求められている気がするのだ。あえて考えないうえでのポジティブさと、無知ゆえのポジティブさでは質が徹底的に異なる。この絶対的に孤独な作業が、生への志向性なのだろう。
 さらに、この姿勢を自分の力で定義できなければ、いずれ人は自我を失い、「廃人」となると強く確信している。なぜなら、その営為は、僕たち自身を定義するのだから。(僕がこの考えに至ったのは、過去に自我を失いかけた経験があるからだ。)



 参考文献
[1]若者のための死の倫理学(三谷尚澄)若者のための死の倫理学 | 三谷 尚澄 |本 | 通販 | Amazon
[2]無料の写真: 女の子, ハンモック, 官能的です, リラックス, 白昼夢, 憂鬱 - Pixabayの無料画像 - 2742851



 
 

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