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存在は観念(ヒューム)

ヒュームによれば、必然的な存在は、思考の一方向の動きであり、観念は思考の再現である。
よって、存在は観念である
観念は各自独立している。
何かを反省することと(経験すること)は、それを存在するもの(観念)として反省すること(経験すること)と同じである。
よって、私たちの経験というのは、経験の対象となったものに観念を与えることだと考える。
つまり、ヒュームが言わんとしているのは、この世には真の必然性(物自体に含まれる必然性)や、因果関係というのは存在せず、すべては経験に基づいているということである。

モラベックのパラドックス

 

 20世紀について考えてみる
 それは①世界規模の戦争が起こった世紀であり、
    ②資本主義と社会主義のという壮大な「実験」が起こった世紀であり、
    ③テクノロジーと地球環境の関係を考え始めた世紀である[2]
 国と国の境界が希薄化する中で、時には争い、時には協力する。すべては国の利益、物質的豊かさを最大化するために。20世紀は、そんな「経済の世紀」だったと考えられている。


 では、私たちが今生活している21世紀はどうなのか?
 あくまで先進国にいる筆者の点からいえば、世界は物質的には非常に恵まれ、快適な湯船のようだが、精神的には生の目的を失い、草木も生えぬ荒野のようだ。そこで、テレビ、映画、音楽、本、アニメ、アートに代表されるような、娯楽が私たちの心を埋めようとする。21世紀は、そんな「文化の世紀」だと考えられる。
  
 文化を享受するには、私たちが人間である必要がある。つまり、私たちが人間であり、人間が私たちであることを文化は前提としている。しかし、21世紀に入って、一つ厄介な問題が生じた。AIの登場だ。AIはわたしたちに、人間の定義に対する疑問を投げかける。今回は、そんなAIと私たちの知能に関する、ある興味深いパラドックス、「モラベックのパラドックス」を紹介しようと思う。


 結論から言えば、伝統的な前提に反して、高度な推論よりも感覚運動スキルの方が多くの計算資源を要するというものが、モラベックのパラドックスにあたる。論理学や代数学など、私たちが苦心して編み出してきた知よりも、私たちの認識からすれば極めて日常的な行動の方が、実は計算により定量化することが難しいということである。とりわけ難しいのは私たちの「無意識」と呼ばれるものだという。
 では、なぜこんなことが起こるのか?
 ひとつには、「進化」の観点から説明ができるという。つまり、人間の歴史上、ごく最近発展した抽象的思考に対し、脳の感覚運動や無意識はずっとずっと昔から存在し、自然選択により高度に保存され、最適化されているからだというのだ。
 この説を提唱したハンス・モラベックは次のように言っている。


 『人間の脳の感覚と運動に関する部分は、自然界で十億年間経験し生き残ってきたことで高度に進化してきた。我々が推論と呼ぶ意識的プロセスは、より古く強力な通常は意識されない感覚運動的知識によって支持されなければ意味がない薄いベニヤ板のようなものだと私は信じている。感覚と運動の領域では我々はみな並外れたオリンピック選手であり、難しいことも簡単にこなすことができる。しかし抽象的思考は新たな技であり、おそらくここ10万年で発展してきたものである。我々はそれをまだマスターしていない。それは本質的には難しいことでは全くない。単に我々がそれをしようとするときに難しく思えるだけである。』[1]


 ここで、一つ僕が感じたことを付け加えておこうと思う。
 それは、一般的に私たちを人間たらしめているのは言語のシンボル機能や論理的思考力、コミュニケーション力、道具の使用などと言われるが、モラベックのパラドックスが言うように、進化46億年の中で私たちが高度化してきた「無意識」の中にこそ、私たちが人間である証があるのかもしれないということだ。
 したがって、今後超AI時代を迎えるにあたり、私たちは「無意識」の中に、私たちらしさというものを見出してみる、そんな営みが必要となる気もするのだ。
 ※モラベックのパラドックスは1980年代に提唱された理論であり、現在どう批判されているかは時間の制約上掴めていない。後日調べてみようと思う。


参考文献
[1]モラベックのパラドックス - Wikipedia
[2]20世紀とは?
[3]無償のイラストレーション: 何も, 間違った, パラドックス, 問題, 大丈夫, プロファイル - Pixabayの無料画像 - 1394845
 


 

真実について思うこと

 プラトンのイデア論にしても、人間というものは真実というものの実存を信じてやまない。しかし、人間の意識からではなく認識対象となる物質の側から見たとき、この世界は最初から真実も、嘘もなく、ただ厳然たる事実のみがあると悟るかもしれない。世界に存在するすべての人間は、そうした厳然たる事実の中から自らに都合の良い事実だけを真実と誤認して生きている、と。ただ、この現状を変えるすべを人間は持たない。なぜなら、それよりほかに生きるすべを獲得できないからだ。人間とは身を覆いたくなるような恥を抱え続ける惨めな生物なのだ。


 ここで、一つ思うことがある。世界に存在する人間を外部から観測する観測者の存在を仮定したとき、観測者から見た人間の真実とはなにか、と。仮に宇宙人だとしよう。まず、彼らは人間との交流を図り、人間の文明度を知ろうとするかもしれない。リチャード・ドーキンスの言葉を借りれば、その際彼らは人間が自己の存在理由を解明したかどうかを指標の一つにできるという。存在理由の実存を問うのだ。そこで、人間の生態を徹底的に調査し、宇宙人はあることに気づくかもしれない。
 つまり、人間が自らの存在に理由、真実を求めるとき、真実とはされなかった膨大な数の「非対称な」事実が現出するため、人間の理想を粉々に破壊する事実、自らに不都合な事実こそことごとく真実であるように思われる可能性が浮上してくるのだ。


 したがって、事実のプールから微量の真実がくみ取られる状況下では、真実は形の定まらない流動体のように、僕は感じるのだ。
(あたまが限界のため、自分でも何かいてるかわかりませんので、注意)